Inside Looking Out
山本和弘

大竹敦人の作品は地球の歩き方、ならぬ世界の捉え方を教えてくれる。もちろん、捉えるといっても世界の全貌を余すことなく捉えることなど私たちにはできうるはずもない。しかし、あくまでも視覚的にという注釈をつける限りにおいて、大竹は世界そのものを手中に収める醍醐味を私たちに示してくれる。

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 世界を手中にする方法は、ピンホールという極めて古典的かつ堅固な光学原理である。そこには人為的なレンズは介在しない。ピンホールは針穴を通った光が光源の反対側に像を結ぶという原理そのものが作品に直結するものであり、アーティストの手や技が介在しにくい方法でもある。そこで像を映し出すスクリーン(遮蔽面)をいかに構築するかにアーティストのコンセプトが最も明確に表れることになる。

 大竹が採用するのは硝子球である。硝子は像を映し出しながらも光を透過させるという相矛盾した特性をもつ。また、球体はその表面にかかる力を均一に分散させる力学的特性でも知られるように、ピンホールによるカメラ・オブスクラ(暗箱・暗室)のスクリーンとして用いられる場合、内部に取り込んだ光線の束を最大化して受け止めるのに最適なフォルムでもある。これらの硝子球の特性と、いわゆるパンフォーカス(無限界合焦点)というピンホールの特性とが相まって、私たちの眼の前に実現される球体像では、建築的な遠近が解体され、天と地が反転され、内と外の入れ子状の関係も転倒されている。まさに世界内存在とも規定される私たちが、世界の内側にいながらにしてその世界を外側から見やっている状況がここには現出している。

 また、絵画のようなフラット・スクリーン(平板遮蔽面)は世界の部分としての像をしか提示しえないのに対して、大竹のスフィアリカル・スクリーン(球体遮蔽面)は世界の全体としての像を原理的には提示するだろう。さらに世界を巨大な球体と仮定した場合、光学的事実としてはその半分だけを光線として取り込んでいるにすぎないが、しかし、視覚的事実としては、あたかも世界そのものが一個の球体の中に吸引されたかのように感じられるだろう。アフォーダンス風に言い換えるならば、私たちを取り巻く周囲光としての大きな世界を、ピンホールによって、反射光としての小さな球体へと変換し、それを像として提示したものが大竹の球体像であるといえるのである。

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 こうして世界を球体内部に映し込むことは、私たちの眼の前に広がる掴みどころのない茫漠とした世界、いや宇宙を捉えることに他ならない。しかし、そこには計測不能の宇宙と張り合うかのような現代のテクノロジーがもつ壮大な気負いは一切ない。しかも、その球体が両手で抱きかかえられるほどの大きさであることによって、光学的に圧縮された世界は私たちの眼球や頭蓋と等価の近さに引き寄せられる。あたかも私たちが日常的に見ている世界そのものが手のひらサイズで提示されたかのように。

 さらにこのスケルトンな球体映像は、世界そのものを捉えることではなく、世界が像としてのみ捉えられうることを示してくれる。しかも、このフラジールな球体像はあたかも世界像の生成の現場に立ち会っているかのようなダイナミズムと、像化された世界がいつ砕け散ってもおかしくない危機的現実をも体感させてくれるだろう。

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 たしかに個々の硝子球は21世紀の表参道という現実を写像している。だが、そこで私たちが見い出すのは、まさに赫奕(かくえき)として瞼の裏に立ち上りながらも、いまだ定着されざる像の始源そのものだけが浮遊しているという事実である。個人のまなざしと世界との橋渡しをするのが、大竹のピンホールという方法であるとすれば、光景と闇景の狭間を往還する像世界は、生から死への往還もが無限階調的に連鎖していることのアナロジーであるかもしれない。あるいは、世界が時間的・空間的に閉じているとするならば、私たちのいる世界そのものもまたひとつの巨大なカメラ・オブスクラであることをも「光闇の器」は気づかせてくれるだろう。

(やまもとかずひろ 美術評論家/栃木県立美術館シニア・キュレーター)